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雲仙天草国立公園

写真:高舞登山より望む天草諸島
[高舞登山より望む天草諸島]

地図

雲仙には、昭和3年に指定された普賢(ふげん)岳紅葉樹林など5件と、平成16年指定の平成新山、計6件の国指定天然記念物がある。

一方、歴史的には、8世紀初頭の満明寺開基以来、宗教の山として栄え、明治期には外国人の保養地として発展した。また、江戸時代から近年まで、放牧も盛んであった。

この国立公園の風景は、変化に富む自然を縦糸に、振幅の大きな人の歴史を横糸にして、重層的に織り上げられたものである。

島原半島と雲仙

写真:仁田峠のミヤマキリシマ
[仁田峠のミヤマキリシマ]

長崎県島原半島の雲仙地域と、八代(やつしろ)海を隔てて九州本土と向き合う天草地域からなる。昭和9年、雲仙国立公園として瀬戸内海、霧島とともに最初に指定された国立公園である。その後31年に天草地域を追加して現在の名称になり、42年にはさらに天草5橋地域を追加している。

雲仙岳は複式火山で、九千部(くせんぶ)岳、妙見岳、野岳など10座以上の火山群からなる。その中で普賢岳は、妙見カルデラの中央火口丘であり、近世に活動の歴史が残るのはすべてこの山である。特に寛政4年(1792)の噴火では、同時に起こった強い地震により東部の眉山(まゆやま)が大崩壊を起こし、島原の町を埋没させたうえ、有明海に津波を引き起こして死者15,000名を出した。「島原大変肥後迷惑」として伝えられる、日本最大の噴火災害である。島原の九十九島はそのときの流れ山の名残である。

写真:雲仙地獄
[雲仙地獄]

雲仙温泉はこの地域の利用の中心である。普賢岳西方の谷間にある平坦地で、大宝元年(701)に行基(ぎょうき)が大乗院満明寺を開き、中世には高野山と並ぶ真言宗の霊場として、隆盛を極めたと伝えられる。温泉も古くから利用されていたが、明治以降は香港や上海などに居留する外国人の避暑地としても利用され、国際的に知られるようになった。このため、長崎県は明治44年に雲仙を県営公園に指定し、ゴルフ場なども整備して経営に乗り出したのである。洋風建築が多いのはこのような経緯からであり、今も公共建築などにそのスタイルが継承されている。地区内には噴気、噴湯の活発な雲仙地獄があり、原生沼湿原や白雲の池なども散策範囲である。

雲仙岳の国見岳などには仁田(にた)峠から登山道があり、峠から妙見岳まではさらにロープウェイもある。初夏のミヤマキリシマ、秋の紅葉、冬は地元で「花ぼうろ」と呼ばれる霧氷と、季節ごとに変化する自然を楽しめる。登山禁止が解除された普賢岳は、平成新山の展望地点として人気を集めている。また、千々石(ちぢわ)から登る九千部岳は、やや北西に離れた静かな山である。

天草地域

天草地域は沈降した山地であり、上島、下島の2島を主に、大小合わせて120余りの島々でつくる多島海やリアス海岸が展開する。

天草五橋は、九州本土の宇土半島と上島を連絡する5本の橋で、天草パールラインの一部を構成し、上島と大矢野島の間にある天草松島を通過する。ここは多くの小島と入り組んだ海岸線からなる多島海海域であり、上島の千巖(せんがん)山や高舞登(たかぶと)山は、この地区を一望できる代表的な展望地点である。

下島の西海岸は天草灘に面する。北端にある富岡半島の曲崎(まがりざき)には、北方からの沿岸流により発達中の砂嘴(さし)がある。そこから南は出入りの少ない海岸線が続き、海食崖が発達し、特に妙見浦は岩礁や洞門が多い。十三仏(じゅうさんぶつ)崎からは荒々しいこの地区の海岸が展望できる。

これと対照的に、南部の羊角(ようかく)湾は湖沼のように深く湾入したリアス海岸である。また、上島の山稜や下島の六郎次山からは、御所浦島や獅子島などの島嶼(とうしょ)がある八代海(不知火(しらぬい)の海)を望むことができる。

天草といえば、厳しい弾圧を受けたキリスト教信仰に関わる歴史も忘れることはできない。下島の本戸城跡には殉教公園が整備され、関係資料が展示されている。また、石段に十字を彫り込んだ明徳寺、崎津や大江の天主堂なども、この地の歴史と現在を語っている。

普賢岳

写真:普賢岳火山ドーム
[普賢岳火山ドーム]

雲仙の山岳のうち、噴火の記録のあるのは普賢岳のみである。寛政4年の活動は本文のとおりだが、平成2年、198年ぶりに活動が始まり、平成7年まで続いた。この間、火砕流と土石流が多発し、山麓に大きな被害を及ぼし、平成3年には火砕流により死者・行方不明44名を出す惨事も起こった。

この活動により普賢岳東方に新たな溶岩円頂丘が成長し、普賢岳より197mも高い1,486mの平成新山が誕生した。日本で一番新しい山である。

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